院長エッセイ集 気ままに、あるがままに 本文へジャンプ


ネズミの神様


うちの娘は困った娘である。現在八歳であるが、大人をおちょくることを知っている。先日、友人夫妻を拙宅に招いた時のことである。自宅の整理整頓にはあまり頓着のない細君だが、やはり主婦の見栄というものがあるのだろう、四、五日前からせっせと片づけ掃除に精を出し、日頃やり慣れない雑巾がけもしたりして、当日には、ほぼ完璧といえるほどの仕上がりとなった。悪戦苦闘する母親を横目に、手伝う様子もなく無関心な娘であったが、いざ、お客様がリビングルームに案内されて来ると、「おかあさん、いつもは散らかっているのに、今日はどうしてこんなにお部屋がきれいなの?」と言い放った。そしてあろうことか、振り向きざま私にこう言った。「おとうさん、いつもは履かないのに、今日はどうしてスリッパを履いているの?」私たち夫婦は青くなったり、赤くなったりした。


そんな娘であるが、本人の意図しないギャグを飛ばしてみんなを笑わせることもよくある。小さい頃は疳の強い子で、一度泣き出すと止まらなかった。ある日細君が泣きわめく娘を必死であやしているとき、泣きすぎて小さくゲボした。娘は一瞬泣きやんで、低い声で唸った。「にがい、苦すぎる」。私たち夫婦の大きな笑い声で、娘は泣きやんだ。こんなこともあった。ピアノを習いたての頃、ドレミを教わったと言ってみんなの前で披露した。「ドーはドーナツのドー。」ボーン(ドの音をピアノで弾く音)。「レーはレモンのレー」。ボーン。「ミーは・・・ミカンのミー」。ボーン。あれっ?ミーはみんなのミーじゃなかったっけ?と思っていると、「パーはパイナップルのパー」。みんな大爆笑。先生がそう教えたのではなく、忘れたのでアドリブで考えたらしい。何がうけたのか分からず娘はキョトンとしていたが、笑いをとったことがうれしくて、家族は以後一週間そのギャグを繰り返し聞かされることとなった。極めつきは次のエピソード。


娘の通った幼稚園は、古くからあるカトリック系の幼稚園で、私自身もその幼稚園の卒園生である。通い出してしばらくして、朝食の席で娘が言った。「みなさん、食事の前には神様にお祈りをしなければいけません」。なんでも娘の言うには、食事の前に「ネズミの神様」に感謝のお祈りを捧げるのだそうだ。そこで私たち家族、おじいちゃん・おばあちゃんを含め一家六人は、娘の指導のもと一ヶ月あまり朝食と夕食時に「ネズミの神様」に、敬虔なお祈りを捧げた。二ヶ月目のある日、ハッと脳裏にひらめいたことを、私はおそるおそる娘に尋ねた。「ネズミの神様って、ひょっとして、恵みの神様のことじゃない?」すると娘は「あーそうそう、ネズミじゃなくてめぐみだった」。娘の勘違い(聞き違い?)のため、滑稽にも私たち一家六人は一ヶ月以上にわたり、「ネズミの神様」にお祈りを捧げていたのである。ひとしきり笑いが収まったころ、私の母親、すなわち娘のおばあちゃんが言った。「みんなでネズミの神様にお祈りしたのだから、何か御利益があるかも知れないねえ」


なんの御利益も感じられないまま月日は流れ、卒園を来春に控えた最後の運動会の出来事。組別対抗リレーで娘は張り切っていた。娘の組には障害を持ったA君がいた。障害を持つ子供に対するこの幼稚園の取り組みは適切で、先生方の対応も、また園児たちの態度も極めて自然で、かねてから好感を持っていた。私も医師という職業柄、障害を持つ子供たちをたくさん見てきたし、何の偏見もなくまた過度の気遣いもしないつもりでいたのだが、このときはいやな予感が胸をかすめた。二位でバトンを受けた娘は家族総出で見守る中、追い上げて、バトンを手渡す間際にひとり抜いて一位になった。次の走者も一位をキープして、最終走者はA君だった。しかしA君は他の組の園児に次々と抜かれ、娘の組はビリの三位となった。「あー疲れた」。頬を紅潮させて娘が戻ってきた。勝ちにこだわる性格の娘が、次に発する言葉を怖れて、私は取りつくろうように励ました。「ちあむ(娘の名前:知編と書く)は一所懸命よく走ったね。結果は少し残念だったけど」。すると娘は意外にもさらりと答えた。「ほんとだよね。A君もがんばってよく走ってくれたんだけどね」。娘の澄んだ瞳には、恥ずべき私自身の姿が映っていた。私は娘かわいさの余り、A君と他の園児の走りを比較していたのだ。彼は彼の基準で評価されるべきで、その健闘ぶりは当然賞賛されてしかるべきものなのに・・・。娘に教えられたと思った。少し斜になった赤白帽を直してやる。成長した娘に目頭が熱くなった。のぞき込む娘の視線をそらして天を仰ぐと、園庭いっぱいに大きく枝を張ったガジュマルの木漏れ日がゆらゆらと揺れた。小さな手を握ると、娘の肩越しに、古くからある礼拝堂がこぢんまりと佇んでいた。


招待した友人夫妻を最も歓待したのは娘だった。奥様の方に折り紙やリボンで作った手作りの花束をプレゼントしたり、愛犬の紹介をしたり、自分の書道の作品を自慢したりと大車輪の活躍で場を盛り上げた。大人の些細な見栄や外聞を脱ぎ捨てて、私たちは楽しい時を過ごした。ご夫妻が帰った後、ベッドで眠りにつきながら娘が言った。「また来てくれたらいいね。おやすみなさい」。健やかな寝顔を見ていると、ついやさしい気持ちになる。私は心の中で手を合わせてつぶやいた。「ネズミの神様、見守ってくれてどうもありがとう。ご覧のように、わがままで、甘えん坊で、生意気な娘ですけど、今のところいい娘に育っております」


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